5〜9話

ミュウ側ではなく、主に人類側に属するステーションが舞台になる。
スタッフが、ミュウだけでなく、やがてはミュウと対等するキースやサムを描くところに、立場の「平等」を描く意志があることが読み取れてくる。
この回で、大きなキーパーソンが登場する。
問題児、セキ・レイ・シロエ。
残念ながら、前の劇場版や原作では、ほとんど記憶に残っていないキャラクターだった。
しかし、このアニメ版では、ジョミーにとっても、またキースにとっても、具体的な波紋を投げかける存在に浮上する。




5話では、ジョミーのその後が描かれる。


ミュウの次期長候補に抜擢されたジョミー。
しかし、まだブルーが生きてる段階で、彼はあくまで「候補」でしかない。
それはファンに不満をもたらした。
けれども、改めて見ると、ジョミーの成長のプロセスとして、その描かれ方に不自然さを感じない。
ミュウの力に目覚めたばかりのジョミーは、まず、自分の力を制御できる力を持たなくてはいけない。
そのための訓練は納得できる描写だ。
そして、ジョミーは自覚していた。
ブルーの力を失わせた責任。
周囲のミュウからはどう思われようと、ジョミーは力の未熟さを認め、しかし、出来ることを試みる。


その中で偶然知ったシロエという少年。
ミュウ因子を持ちながら、まだ自分が何であるかを知らず、そして、作られた「家庭」を拠り所に生きる少年。
家庭をなくしたばかりのジョミーが、自分のようにさせたくないと思うのは当然だ。


「ピーターパン」を信じる無邪気な11歳のシロエ。
彼の純粋な子供心は、ピーターパンのように思ったジョミーよりも、実質的な環境の中で、愛情を注いでくれる母親を選択する。
それも、シロエの立場から思えば自然の感情である。


だが、悲劇はそこから生まれる。
体制の中で生きるミュウとすでに体制から脱出できたミュウ。
年齢の差異もあって、和解はまずありえない。
それは、ブルーがジョミーを導いた時のようにいく筈がない。


かろうじて、シロエの記憶を消すことで収拾をつけることができたジョミー。
しかし、彼はふさぎこんでしまう。
自分が存在するミュウの立場を憂いで…。そして、力の未熟さをますます感じつつ…。
そのジョミーを父親的な優しさでブルーは労わり続ける。


この段階で、指揮権を誇示し、そして、ミュウから絶大の信頼を得ているのは確かにブルーだ。
だが、若く行動的なジョミーは、充分に主人公としての存在感が感じられる。


かつての「宇宙戦艦ヤマト」でもそうだった。
指揮権を持つ沖田艦長につきながらも、古代が充分に動的な役割を果たした。
この時のブルーとジョミーには、それに似たものがある。


ジョミーの未熟さと和解の難しさを自覚させたシロエは、次の登場で、キースにも、同じような違和感を植えつけることになる。




その前に、6話では、キースという人物を描きだす。


すでに原作や劇場版を知っているファンは、キースがどういう存在かを知っている。
6話の冒頭、キースの出生の伏線がすでに描かれていることに注目したい。
キースは、この時、「初めて」目覚めたのだ。
マザーイライザに見守られて。試験管の中ではなく外気に触れて。


キースは、すでに成人検査をパスした新入生の思考と人格を持って、他の新入生と合流する。
その中にいたのは、サム・ヒューストンだ。
無垢なキースは、意外にも人間的な感情を持っていた。
サムともうち解け、二人は、ステーションを卒業するまで、行動をともにできる「友」になる。
しかし、この時に事故が起きる。
軍部が関与し、しかも、ステーション側の管制官に情報が降りてこないというやりとりがあるが、そこから、この事故が、マザーイライザか何かによって、意図的に仕組まれた事故であることが想像できる。
キースはサムとともに、事故を円滑に処理、そして、マザーイライザのコールを受けて褒め称えられる。
キースは気づかない。
それが、キース成長の計画の一プロセスだということに。


公式サイトでは、一般からの質問にスタッフが答えるコーナーがある。
そこでは明確に「人間はあくまで普通の人間を描きたいと考えていますので、原作よりも未来的でなく現在的に、人間的に描いています。」と示唆している。
キースもその方針の元で「人間らしく」描写されるのだ。
それは、今まで描かれたキース像とは、まったく違う。
それに好感を感じつつ、そのことが、後のシロエとの接点での弱点にもなってくる。




7話では、キース達は早々とメンバーズ候補生として進級したところからスタートする。
この「地球へ…」。気をつけていないと、どんどんと年月が過ぎてしまうので、混乱することがある。


そこに成人検査をパスした新入生としてシロエが再登場する。
そこで、彼は、それまでにない嫌味な少年として描かれる。
彼の反抗的な態度についての返答が、公式サイトで説明されている。


「大切なものを失くしてしまう恐怖と戦うには、自分を鼓舞する感情や理由が必要なのです。彼がそのよりどころとして使ったのは、システムに見事に順応し優秀でいるキースに対する敵対心でした。キースを憎むことで、自分が自分でいられる……哀しい心です。」


本来なら、演出で見せてほしいところだが、この説明が、「アニメテラ」でのシロエの描かれ方だ。


日常、反抗的な態度をとりつつも、夜の自室のベッドの中で、シロエは記憶をなくしたことに恐れを抱き、システムに組み込まれることを拒み続ける。
この姿に対比してくるのは、成人検査をパスできなかったジョミーだ。
シロエは、成人検査をパスしてしまったミュウの少年である。
そのシロエを通して、正式なルートで成長過程に組み込まれたミュウ人類が、どういう経過をたどるのか、私達は知ることになる。


シロエは、どうしてそこまでキースを憎む必要があったのか…。
おそらく、システムを憎むシロエは、システムに順応したキ−スを打ち勝つことで、システムそのものに打ち勝つ意味があると、考えていたかもしれない。
それを裏付けるかのように、シロエはどんどんとシステムの中枢に入り込み、ついに敵対するキースの秘密を知ってしまう。


一方のキースは、新入生の頃に比べて、少し冷徹な性格になりつつあった。
もちろん、それはマザーの洗脳が成功している証拠である。
その性格のせいで、キースに好意を抱いていたスウェナの気持ちを踏みにじることになり、それまで打ち解けていたサムとも、キースは確執してしまう。
ただ、サムのお人よしの性格が幸いし、キースはすぐにサムとの仲を修復させることができるのだが…。
しかし、まだまだ、この時のキースは人間的だった。


キースがサムに好感を持っていたのは、エリート意識が高いキースを遠巻きにするステーションの生徒達と違い、差別することなく、接してくれるサムとの関係が心地よかったのだろう。
以降、キースは、最後までサムへの気遣いを忘れなかった。
いや、そうすることで、システムに支配されそうになる内面を、無意識のうちに人間的な感情にもどすようにしていたかもしれない。
そうでなければ、その後のキースの行動の矛盾さは、違和感を残したまま終わってしまう。


そして、もう一人、キースの人間的な感情を自覚させたのが、セキ・レイ・シロエだ。
キースは何度もマザーイライザのカウンセリングを受けるが、その度に、自分の中からぬぐえない違和感に戸惑い続ける。
反抗を続けるシロエは、そんなキースの内面など気づくはずもなく、ひたすら、キースを出し抜くことばかりにこだわり続ける。
その執念は、思考検査で瀕死になりながらも、キースに向けられることになる。
いい返るなら、それほど、シロエはシステムを憎んでいたのだ。


キースは人間的感情から、シロエを助けて匿うが、それだけではシロエの心は救われない。
切ない結果だが、シロエが向かう場所は、彼が幼い時に体験した「ピーターパンのいるネバーランド」しかない。
ネバーランド=ミュウの世界になるが、本当なら、両親の元にもどりたいと思っていただろう。
かつて、ジョミーがそう望んだ時のように…。


シロエの感情を「ピーターパンシンドローム」で説明つけて欲しくないという意見も聞いた。
しかし、より具体的にわかりやすくシロエの感情を説明できるので、スタッフも引用したのだろう。
成人検査で薄れたシロエの記憶の中で、ピーターパンに憧れた子供心は、痛烈な印象としてシロエの中に残っている。
シロエが拠り所にできるのは、自身の中にある幼心だけなのだから…。


こうして、ジョミーの二度の思念波の呼びかけは、シロエに「行くべき場所」を自覚させる。
だが、時すでに遅く、システムに消去されるしかない立場にシロエは追いやられる。
その命令を受けたのが、皮肉にもキースだった。


キースは命令を実行する。
それは、マザーの命令だからであり、メンバーズを志すキースには従うしかない行動だ。
だが、キースは涙を流す。
このシーンでのシロエへの感情が曖昧なのが惜しい。
しかし、キースはシロエともサムのような信頼関係を願っていただろう。
でなければ、涙を流す理由がない。


追うキースに逃げるシロエ。
救いようのない悲しいシーンをみた時、初めて、このアニメ版「地球へ…」にはまらされた。
シロエを通して見えてきたもの。
それは、人の和解の難しさだ。
理想と現実。そして、自身の感情は、時と場合によっては、偽りながら生きることも必要になる。
現代の人間の生き方の縮図が表現されている。



しかし、ここでも、矛盾点は山ほど山積する。
第一、「SD体制」の管理がどの程度のものなのか、はっきりと描かれていない。
結婚を理由にエリートコースからはずれたスウェナ。
個人の選択は、アニメ版テラのSD体制の中では自由らしい。
まして、成人検査で記憶を消されたはずなのに、幼馴染や両親の記憶があることも変だ。
その他の場面では、自由に記憶を消したり植えつけたりできるのに…。


これは最終回のネタバレに結びつく話になる。
そもそも、このアニメ版テラでは、わざと、ミュウ因子を残し、通常の人類との生存競争をさせてる世界らしい。
ミュウ因子がどうやって備わるのか、その具体的な説明はない。
だが、普通の人類に比べて、ミュウ人類は、とても感情豊かな人類に描かれる。


SD体制の中で機能する管理システムは、ある程度の人間の感情をわざと残し、ミュウ因子が生まれる素因を作り出しているとも、考えられはしないだろうか…。
なぜ、そう思えたかは、6話のキースの初登場の時、まるで現代の監視カメラのように、キースやステーションの生徒達の同行を監視していたカメラレンズの描写だった。
表面は、甘さを残しながら、人間の行動と心理すべてを自由にさせておく。
しかし、その「自由」すら管理しているかのような冷徹な怖さを、定点カメラのレンズの描写で感じたのは、私だけだろうか…。



ただし、そういう野暮な矛盾点は、キースの「元気でちゅか〜?」で、すべて帳消しになった。
あのキースが大のお気に入り。
そういう美味しい描写を、さりげなく入れてくれるスタッフに拍手を送りたい♪